山下神父様と行く「ロシア巡礼」第8日
今日の午前中は、モスクワのクレムリンの見学です。巡礼最後の日に、晴れ渡った空、気温は、20度前後、湿度はほとんどないという快適さに、日本の暑さが怖いです。
ガイドさんが、地面のクレムリンの地図で説明して下さってます。
赤の広場はコンサートの準備のために朝は入れませんでした。
ロシア正教の教会独特の玉ねぎアーチが真っ青な空に映えます。
武器庫博物館の写真は撮影禁止でした。大砲も展示されて、この兵隊は今日、赤の広場で活躍するようです。
モスクワ・クレムリンの「聖母の永眠カテドラル」を背に。
今日のごミサは巡礼最後のごミサで、お恵みにより、モスクワ・カテドラルの中央祭壇で捧げられました。
「今日の福音・マタイ23章には、イエス・キリストのファリザイ派や律法学者に対する最も厳しい言葉が述べられています。当時のユダヤ教徒へイエスが指摘するポイントがあります。
一つ一つ意味を持つものですが、イエスは、まず、ファリザイ人や律法学者を偽善者と呼んでいます。この偽善がもともと意味しているのは、舞台役者の仮面で、外に出てくる人間性と中の人が違うということ。私たちの理想とか信じていることと、私たちが行いを通して表す言葉や動作、言動にギャップがあるということだと思います。私たちが心でこうあるべきだと思っていることと、外面に出現する言葉、両者の間に溝があること。それをイエス・キリストは偽善と呼びファリザイ派や律法学者を批判しています。
人間の生活を振り返ってみると、自分の内面と外に出てくる言動にギャップがあります。人のことではなく、自分を見たとき、私たちは矛盾だらけであることを知るでしょう。偽善についてイエスが批判的に使われる、ものの見えないという言葉、結局、偽善というのは私たちが自分の中を、そして、中と外のギャップを良く見ていないということがキリストの最大の指摘です。
良く考えてみると、中と外の矛盾に気づいていないことが、私たち自身の存在とか、生き方とか、生活の矛盾になっています。私たちの中に矛盾があるのに、なぜ人の矛盾について私たちがとやかくいうのか。こういうところをイエス・キリストは厳しく問われます。自分の目の中に丸太があるのに、どうして相手の目の中にあるゴミを取ろうとするのか。このように私たちの偽善的行為というのは、結局、自分の真の姿を見ていないこと、自分の中にある矛盾に気づいていないことがイエス・キリストの批判の元です。
この巡礼を通して一つでも多く、私たちが私たち自身の中にある矛盾、私たちが抱えている矛盾に光が当てられたら、それは大きなお恵みです。私たちがそれに気づくことで人を受け入れること、人を裁かず、人の矛盾に慈しみをもって対し、神の行いに倣っていけるように、聖母の取り次ぎを願いましょう。」(文責:小池俊子)